習作その1



リトル七福神 -三種の神器争奪戦- 1994.5-執筆中  我人 作

1 全員集合


☆全員集合

1−1 青い目をした娘は同居人
 (ぶわーっ、身動きできねーじゃん。マジか?これ)
ウワサには聞いていたが、体験して初めて通勤ラッシュのもの凄さがわかる。
「うげーっ!」
隣の車両から男の悲鳴が聞こえた。その周囲ではどよめきが起こっている。健司は様子をうかがおうとするが、やたら背の高い男にさえぎられてよく見えない。
「××××」
「ちがうよー、おれじゃない」
「××××」
「とにかく、おれじゃないんだ」
「×××××」
「もう、かんべんしてくれよー」
「×××××××」
「お、おれじゃ……ないって……ズズ」
なんだか女の怒声がするが、よく聞き取れない。男はしまいには泣きべそをかいている。しかし女の執拗な非難はつづいているようだ。周囲はすでに我関せずの空気である。男のすすり泣く声が電車の騒音とともに、しばらくつづいていた。

健司は車内アナウンスの声で、網棚に置いた寝袋をあわてて取りホームに降りた。ここが新天地「荻窪」である。住宅街と聞いていたが、少なくとも駅周辺は島根の片田舎の繁華街よりずっと華やかだ。
陽の暮れぬうちに着きたいからと島根の実家を早朝に出たものの、結局夜になってしまった。闇は駅を離れると途端に色を濃くした。
田舎と違って、住宅街には街灯がそこかしこに光の環を落としている。人影はほとんどなく不安な面持ちで、電柱の住所板をたよりに進む。
突然、角を曲がってきたバイクがまぶしい光を放ちながら猛スピードで健司に向かってきた。危うく避けた健司を後方でうかがうように止まり、そのまま去っていった。
(冗談じゃないぜ、まったく。こんな狭い道で飛ばしやがって)
皮ジャンの背中に虎の絵が描かれていたように見えた。性質の悪い暴走族野郎か?
気を取り直して歩きはじめる。
一戸建ての住居が密集しているなかに、広い敷地の一角が見えた。番地は確かにそこなのだが、敷地は塀に囲まれて入口らしき門は鳥居風にあしらってある。暗がりに目をこらして周辺を調べるが、表札らしきものはなかった。門の奥は樹木も邪魔していて、建物の様子はうかがえない。渡された地図では、まちがいなくここのはずである。ま、とにかく、きょうから新天地だ。「大黒、お世話になります」と柏手を打ち頭を下げた。
 と、下げた頭の横から不思議そうに覗き込む顔が目の端に飛び込んだ。背筋に悪寒が走り、腰砕けになるのをこらえて見れば、足はついているようだ。
 (なんだよ、いきなり)ムッとした面持ちでいると、目と鼻の先に青い眼が迫って来て、
「ワタシノアパルトマン、アナタシッテイマスカ?」
 ときた。西洋人のようだ。知っているかと聞いているのはわかったが────
「君のあぱ、あぱ・・・ふとまん?」
 よく見ると、映画に出てきそうな金髪美人。背は高いが瞳にはあどけなさが残っている。
「アパルトマンデス。ア・パ・ル・ト・マ・ン」
「えーと、アパートのことかな」
「ソウデス、アパルトマン。ワタシ、スム」
「何て名前? ……えーと、ネームオブザアパート、プリーズ」
 (こんなんで通じるのかな?)
「ウー」
 と、うなりながら、手に持っていた手帳に目を落とす。こんなに間近にほんものの金髪娘 を見たのは初めてで、健治はいくぶん感動を交えながら観察してしまった。フワリと髪が揺れたかと思うと、跳び跳ねるように彼女の顔がまた迫ってきた。
「ボン・ビソウ、ネ」
「ぼんび荘?」
 (あらら、ここだよ。マジかな、これって。青い眼の娘と同じ屋根の下で暮らす……ラッキー!)
 訝しげな眼差しがこたえを催促しているのに気づき、緩んだ口もとを引き締めてから、ひとつ咳ばらいをする。
「あ、ここです。えー、ヒア、ヒア」
 金髪娘はヒューッと言って首を左右に振り両肩を上げ小首を傾げたかと思うと、いきなり健治の肩に手を伸ばし「メルシー、ムッシュー」と言って頬をすり寄せた。一瞬からだに電気が走り、全身が硬直して目の前が白くなった。
 数秒経ったか、気がついたときにはすでに彼女はいなかった。かすかに残る甘い香水のかおりが健治の脳の奥深い部分を刺激する。(ああ、青春の始まり…か?)適当なメロディを口笛にしてアパートの玄関ドアを開けた。

 翌日の午前遅く、引越し荷物が届いた。軽トラック1台で事足りる簡素な引っ越しである。歩くたびに軋む廊下を健治を含め3人で3回往復しただけですべて運び終えた。玄関から直線にのびる廊下に面し東西に部屋が6部屋ずつある。健治の部屋は105号室。奥から2番目の西側に位置している。間取りは全室共通で、6畳和室と4.5畳大のダイニングキッチン、それにトイレがついている。バスルームはなかったが、3、4人同時に入れる広さの共同風呂がある。石づくりの浴槽は質素なアパートには似合わないほど豪華で、温泉気分を味わえる代物だ。しかも湯水は地下からの若干塩分を含む石膏泉(なんでも飲むと慢性の便秘に効くらしいが、飲む奴なんかいるのだろうか)だと聞いた。偶数時間帯と奇数時間帯で男女の入る時間が決められている。女は偶数時間帯で、たとえば8時ちょうどから9時10分前までの50分間、9時ちょうどから男が利用するといった具合。健治の隣、一番奥の部屋が洗面室とその共同風呂になっている。なぜか、そこは106号室と部屋番が与えられている。きっと、以前は普通の部屋として使っていたのだろう。
 さて、さっそく荷物の整理でもするか、と段ボールを開けはじめたとき、ドンドンとドアが軋むほど叩かれた。返事をする間もなく勢いよくドアが開け放たれ、金髪の娘が跳び込んできた。
「スミマセーン、ワタシノヘヤデ、オナシテクダサーイ、オネガイネ」
 と、あの青い眼の彼女だ。
「はっ? あ、いや、オナするって。そんなあなた急に、会ったばかりで、ハハ・・・」
「ラジオ、ウゴキマセン。アナタ、オナシマスカ?」
「あ、別に音楽なしでも……はあ?」
 と言ったところで、汗がどっと吹き出した。(それはラジオをナオシテと正確には言うのですよ)耳を真っ赤にしている健治をまたもやジーッと見ていた彼女は、健治が首をたてに振ったのを見てさっさと自分の部屋へ戻りにこやかに手招きしている。彼女の部屋は健治の部屋と真向かいの108号室だった。
 すでに開いているドアを一応ノックしてから彼女の部屋に入った。
「あのう、ユア ラジオ リペア?」
「ソウデス、オナシテクダサイ」
「あのう、それは、な・お・す、と言うんだと思います。日本語では……」
「オナシテ、ナオス、デスカ?」
 説明をあきらめた。
「ワタシ、シモンヌデス。シモンヌ・ベンザイ。フランスジン。アナタ、ナマエハ?」
「けんじ。おおぐろ・けんじ」
 名前を聞くといきなり眉をしかめた。
「どうしたの?」
「アナタ、ワタシヲタベナイネ。ヤクソクシナサイ」
 また訳のわからないことを言いだした。(そんな男に見えるか、オレって)ラジオのあちこちを調べていた手を止めて、ここはさすがに言わねばと思う。
「あの、君ね、ぼくはそんな乱暴な男じゃないよ」
「アナタ、オグルォム。ソレ、ヒトクイノコトネ。ワタシマズイヨ」
 何だかわからないが、きっとフランス語の発音で「オオグロ」はそう聞こえるのだろう。自分の勘違いと彼女の勘違いでめまいを起こしそうだった。
「お・お・ぐ・ろ・け・ん・じ。日本人の名前。わかる? 日本語では変な名前じゃないんだから」
 一応なっとくしてくれたようだが、目の端に疑いの色を宿している(やれやれ)。
 結局ラジオの方は日本の電力規格に対応していない外国製品だったわけで、ちょうど余っていた乾電池をさしこんでこの一件は落着した。いやはや、この先どうなることやらと思わずにはいられない二日目だった。しかし、こんなことはまだまだ序の口だったのだが・・・。

<図1 凡美荘の部屋割り>

   ┌─101─┬─102─┬─103─┬─104─┬─105─┬─106─┐
   │ 長孔明 │ 白鳥  │コトブキ │ 池内  │ 大黒  │共同風呂 │
   │     │     │     │     │     │ 洗面室 │
┌──┼─────┴─────┴─────┴─────┴─────┴─────┤
│玄関│            廊       下              │
└──┼─────┬─────┬─────┬─────┬─────┬─────┤
   │ 織田  │ホテイダ │エビース │ 本田  │ベンザイ │ 福禄樹 │
   │     │     │     │     │     │     │
   └─112─┴─111─┴─110─┴─109─┴─108─┴─107─┘


1−2 ロシア人ズワイコフの悩み
 4月の新学期開校まであと5日。引っ越してきた一昨日まではまだアパートの半分は空き部屋だったのが、昨日今日で全室入居が完了したようだ。横文字名の表札が4室もあり、さすが東京は国際的だ、などと健治は感心していた。しかし、向かいのパリジェンヌみたいなのばかりでは、と期待と不安が入り交じった複雑な心境である。
 そもそも何で転校しなければならなかったのか。東京へ来る前日、あらためて父親に尋ねてみたが、行けばわかるからと相手にしてもらえないのだ。こちらの学校の理事長と父親は知り合いだということはわかったが、何か策略めいている。ともあれ、東京はすごいぞ楽しいぞとあれこれ言われて、ほんのちょっと興味を示したところ、父親が転校手続きを勝手にしてしまったのだ。ふだんのんびりしているあの親父にしては手際が良すぎる。やはり怪しい。

 引っ越し荷物の整理もおおかたつき、健治は挨拶まわりをしておこうと思った。まずは、家主の凡城さん宅に向かった。
 凡美荘から西武線の上井草駅に向かって300メートルばかり歩いた所に凡城宅がある。周辺の邸宅もさることながら、凡城さんの邸宅はひときわ広い敷地に10部屋もありそうな巨館を構えている。老夫婦の二人住まいにしては広すぎる。話によると、部屋の半分以上は留学生や地方からの学生に間借りさせているらしい。なんてインターナショナルなじいちゃんとばあちゃんなんだと、またしても東京は国際的だと痛感する。
 凡城種太郎という家主のじいちゃんが言うには、健治の父親大黒徳矢にその昔世話になったとのことだった。なんでも、戦後中国(当時満州)から帰還したとき、徳矢の指導で米の仲買人の仕事をして一財産築いたらしい。今はその商売もやめ、子供がいないのでアパート経営などして若者を呼び寄せ余生を送っているのだという。
「ところで、あんたは何番目の息子さんじゃろ。あんたが生まれたころ、徳矢さんは60ぐらいだったろうな、あの頃40にはなっていたからの。電話の声は変わらんかったが、もう90は過ぎたろうに元気なもんじゃな」
 年寄りがいくつもの質問をいっぺんにするのは、東京でも同じなんだなと感心しながら聞いていたが、ふと、どう応対していいものかとまどった。質問からすると、どうやら大黒家の秘密は知らないようだ。(うまく受け流しておかなければ)
「ええ、気持ちだけは若くって困ります。ハイ」
 まさか大黒家の平均寿命が300歳だとは言えない。先祖の話を持ち出して説明したって、一般人に理解できることではないのだから。
 あまり長居すると余計なことを言ってしまいそうなので、早々に凡城宅を去った。

 凡美荘に戻ると、なにやら騒ぎが起きていた。
 案の上、あのフランス娘が騒ぎの中心人物らしい。廊下に集まった同居人たちの輪の中で、初めて見る背の高い外国人の男と口論している。彼女はバスローブ1枚の姿で。
「どうしたんですか、いったい」
 周りの男に健二は尋ねた。
「ボク、ワカリマセン。タダ、オンナノヒトキレイネ。オオ、ナニヲイウ」
 また、わけのわからないヤツの登場だ。後ろ姿からてっきり日本人かと思ったのに、この男も外国人らしい。アジア系であるのにはまちがいないが。自分の言葉に顔を赤らめて逃げるように部屋に戻っていく。
 その隣にいた女性がおしえてくれた。
「シャワーをのぞかれたらしいよ。あのパリジェンヌ。ここじゃよくあることなんだけどね」
見るからにOLという身なりと仕種である。のぞきなんて大したことじゃない的な物言いだ。
 口論している男は何か反論しているようだが、日本語でないのでわからない。フランス娘の彼女は例によってたどたどしい日本語で怒っている。
「ニホンゴ、シャブリナサイ。ココ、ニホンデスネ、ナゼアナタシャブラナイ、ワルイコトシタカラシャブラナイ、デショ」
「ЁБРФЙЗТ ЫЩОУЦ МОЯДАЭМ.・・・・いいでしょう。では、日本語で話し合いましょうペラペラ。でも、あなたの日本語ではわかりません。とにかく、わたしはただ風呂場がどこにあるのか確認しただけでペラペラ、そこにあなたがいることなんか知らなかったのです。昼間から風呂に入るのは小原庄介という人だけです。あなたは小原さんの親戚の方ですかペラペラ?」
 急に流暢な日本語で話しだした。顔を見なければまるっきり日本人の話しぶりである。が、「ペラペラ」は誰かが褒めたことを気に入って使っているのかもしれないが、とても変だと伝えたい。さらに、混乱はつづく。
「アナタ、ニホンゴ、ヘタデス。コマッタモノデスネ」
「もう、いいです。とにかくわたしは悪くないペラペラ」
「オオ、コノヒト、イイヒトデスカ? イイヒト、ハダカスキデスカ? ノゾキスキデスカ? ワタシノクニ、イイヒトハダカミルトキ、オカネダシマス、ワルイヒト、オカネダシマセン。デモ、ワタシ、オカネイリマセン、ダカラ、ハダカミセマセン」
 健治は頭を抱えながらふたりの間をすばやくすり抜け、部屋へ飛び込むやいなや内鍵をかけ布団を取り出し頭からかぶった。そうして悪霊退散の呪文のように、自分でもわからない言葉を繰り返し繰り返しつぶやくのだった。

始業式までの数日間、健治はなるべく一日中外出するか部屋に閉じ籠もるようにして、同居人たちと顔を合わせないよう努めた。とにかく、この凡美荘では何が起きるかわからない。たとえ連続殺人事件が起きても驚かないどころか、マスコミのインタビューには自信をもって凡美荘住人たちの奇異さを話せると思う。こんな連中と年がら年中同じ屋根の下で暮らすのかと思うと情けなくなるが、いまさら引っ越すにも金はない。親父に頼んでもどうせ相手にはしてくれないだろう。まあ、学校に通い始めれば気がまぎれるかもしれないし、とにかく触らぬ神にたたりなし。願わくばあいつらの中に同じ学園の生徒がいないことを祈るだけだ。
 学園の始業式はおごそかだった。
 神主の御祓いの儀式から始まったのには驚いたが、あれは学園の理事長だったらしい。学園は宗教団体が経営しているわけではないが、創立者の前理事長がもともと鎌倉の銭来神宮で神主をしていたこともあり、式典に際して御祓いの儀式をすることは当時からの習わしになっているという。健治の実家は代々神社の神主であるからそれ自体は見慣れた風景だったが、始業式で儀式を執り行ったことなど噂にも聞いたことはない。
気になる同居人たちはというと、国際クラスの席をざっと見渡したところ幸い彼らたちの姿はなかった。他の高校の生徒なのだと祈る。
 健治のクラスである2年ハ組の教室は新棟甲舎にある。8階建ての甲舎は2年前に建てられたばかりで、最新のハイテク技術が導入されているという。たとえば入口の自動ドアを抜けると正面にエスカレータがある。4階でUターンして8階まで続くこのエスカレータにもハイテクが仕込まれている。健治のクラスは3階にあり、エスカレーターに乗ると3階の手前で足元のステップが赤く光り合図してくれる。あとでクラス仲間から教えてもらったのだが、このトリックのタネはジャケットの襟に付けた級章にあるそうだ。初めは入学祝いの記念品かと思っていたが、よく見ると黄色地の紋様の円盤に「ハ」の字が埋め込まれており、色は在籍部(学園は中等部、高等部、専門部に分かれている)、字は学年とクラスを表すものだった。警備用も兼ねた乗り口のセンサーでそれらを読み取っているという。東京はインターナショナルだけでなくさすがにハイテクでもあると、健治はまたひとつ感動した。
 クラスの男女比はほぼ同じで総勢30名くらい。一応、進学校だというから一般にくらべて女子の多い学校といえる。郷里の友人から東京にはかわいい女がいっぱいいるぞと冷やかされた。そのときは興味なさそうに空返事をしたが、思春期に異性に興味を持たないわけはない。健治はそんな気持ちを悟られまいと思いながらも、自然に目は四方八方をさまよっていた。転入生の多い学園と聞いているが、このクラスでは浮いているのは健治ひとりのようだ。教壇に近い席でざわめいている数人の女子を見ていたとき、その中のひとりが急にこちらを振り向く。視線がからんだのは一瞬だった。恋の予感はそうした一瞬から始まる。健治の胸に熱いときめきが湧きあがろうとしたとき、担任の教師が現れた。いささか歳はいっているようだが、いかにも深窓の令嬢といった風情だ。しかし、どこかで会った気がする。
「あっ・・・(アパートで見かけたことがある)」
 思わず声に出てしまった。周囲の3、4人が健治を見る。軽く咳払いをして素知らぬ顔をする。担任は白鳥るり子と自己紹介した。そのあとクラス名簿に目を落としてから、学園からの通達事項があるので、と話しだした。
「今期からクラス編成に新しいシステムを採り入れます。従来はみなさんも知ってのとおり、この学園には国際クラスというのがあり外国人生徒向けのカリキュラムが組まれていたわけですが、彼らからの要望で高等部では国際クラスを撤廃し・・・」
 話の途中で教室のドアを外から叩く者がいた。
「スミマセーン、チコクシタヨ、ワタシワルイヒトデス」
 担任の話はどうやら一般クラスに外国人が編入するということらしい。それにしても今の声で鳥肌が立ち始めている。いきおいよくドアが開け放たれ金髪女性がヌッと姿を見せた。
「あ っ ! ・・・」
 と言ったまま健治は絶句した。今度は教室全体に響きわたる大声だった。金髪女性が健治を見た。
「オ ー ! 」
「え っ ! 」
 金髪娘につづき白鳥先生も声を上げる。
 あっ! オー! えっ! という一連のやりとりに、生徒全員が声のした方へ順にそろって顔を向ける。その整然とした頭の動きは、オーケストラで演奏するバイオリニストたちの手の動きの正確さに勝るとも劣らないものだった。
 この<あっ、オー、えっ>輪唱がしばらく学年内の話題にのぼったのはともかく、このときの健治は『天国と地獄』の旋律が両耳の間を往復していたのだった。

 始業式とクラスでの顔合わせが済み、午前中で学園の初日は終了した。結局、不安が的中し、しかもシモンヌと一緒に帰る羽目になってしまった。気づかれないようにひとりで帰ろうとしたのだが、祈りは通じなかった。学園からアパートまでは歩いて10分ほどの距離。シモンヌはかなりのおしゃべり娘だ。教室を出てからずうっとしゃべりっぱなしには閉口する。お互い自己紹介をしたまではよかったが、そのあとは彼女の身の上話が続いている。たどたどしい日本語で、なぜ日本に来ることになったのかぼやきも入れながら説明をする。顛末は健治の場合と似ており、母親から突然留学するように言われたらしい。本人は納得いかないと何度も首を振っていた。そう言った直後に、もう日本に来てしまったのだから、今は日本での学園生活をエンジョイしたいと笑う。さすがに欧米人は気分転換が早いものだと感心してしまうのだ。彼女はフランスのニース出身で、父親はフランス人、母親が日系3世らしい。
 アパートにたどり着くと健治はいそがしく廊下を進み、後ろのシモンヌに別れを告げ、そそくさと部屋に入った。

 夕食は自前で炒飯をこしらえ、開幕間もないプロ野球中継を見ながら食べた。満腹の腹をさすりながらテレビを見つづけ、試合は同点のまま終盤を迎えていた。ますます目が離せない状況だったが、9時ちょうどのバスタイムは絶対である。仕方なく浴室に入ると、先客がふたり湯船に浸かっていた。ふたりの視線が健二に集まる。
「どうも、こんばんは」
「あ、こんばんは」「どうも」
 健二から挨拶すると、どこかホッとしたような表情で挨拶を返してきた。話しぶりからするとふたりは以前からの住人らしい。やはり以前から住んでいる女性の噂話をしていたようだ。湯船はさほど広くないので、健治はどちらかが出るまでとシャンプーから始めた。噂にのぼっている女性のひとりは<先生>という呼び方からすると、担任の白鳥先生のことに違いない。もうひとり<チーちゃん>と呼んでいるのは、香水を振りまきながら歩くあのOLだろう。この古アパートには似合わないハデな恰好をしているが、ツンとしたところがなく挨拶も笑顔でけっこう感じのいい人だと健治も思っている。あんな姉がいたら楽しいだろうなと思えるタイプだ。
 湯船のふたりはサラリーマン風と学生風(髪型でそう思う)である。いささか下卑た話に興じている。もちろん健治も猥談はきらいではないが、他人(知り合いでない)の猥談は傍で聞いていて胸糞わるいときがある。そんなことを思っているところへ、もうひとり湯浴みにやってきた。見れば体格のいい、あのシモンヌと先日口論していた外国人だった。ひととおりお決まりの挨拶を交わしたあと、サラリーマン風の男が外国人に話しかけた。
「僕は104号の池内です。この間の・・」
 話し始めようとする池内の言葉を遮り、外国人が無表情のままこたえた。
「私はエビースといいます。ズワイコフ・エビースです」
 数秒の沈黙に耐えかねてか、学生風が自己紹介する。
「え、えー、僕は織田寛治。112号室です」
 場の雰囲気から健治もだまっているのは不自然に思え、聞かれもせずに名前と号室を言う。またしばらく沈黙がある。健治は身体が冷えてきたので仕方なく先客のいる湯船に入った。3人入ると脚の伸ばしどころが限られる。ところがその狭くなった湯船にエビースも入り込んできたのだ。ほぼ正方形の湯船の各角を背にして、4人の脚は中央に向く。ほとんど炬燵状態の脚のからみ合いとなり、互いのすね毛が触れ合う触覚で尾てい骨にジンジンとおぞましさを感じるのだった。
「あのう、この間はたいへんでしたね」
 この奇妙なふれあいと沈黙に耐えかねてか、池内がエビースの精悍な顔をうかがうように話しだした。
「ああ、小生意気なフランス娘のことですかペラペラ」
 エビースは静かな物腰でこたえた。意に介していないという風情である。
「ちょっとあの娘は変ですよね」
 調子に乗って池内が続ける。
「そう、変です」
 少し目じりが上がったようだ。 「誤解もはなはだしい。共同風呂ということでわれわれもいつも気を使っているんですけどね、たまたま時間を間違えることもあるわけで、つい最近も逆のケースで僕が風呂から上がって着替えしようとパンツに片足を入れたところで後ろでキャーッですからね。入口の札がまだ<男>になっているのにですよ。あなたのときだって、札が<男>になってましたのにね・・・」
 池内は、あきれ顔をしてみせながら少し調子に乗って話しつづける。
 そのときエビースの耳がピクッと動いた。
「それをあの娘、完全にあなたを痴漢扱いにしてね〜」
 エビースの口から言葉がもれた。3人とも何を言ったのかわからず、しばし無言でエビースを見つめた。突然、大声で怒鳴りながらエビースが池内に襲いかかった。
「なんでそれをあの時言わなかったんだーーーーペラペラーーー!」

 ぎゅうぎゅう詰めの湯船で猛り狂う巨体を押し止めることは、きっとスサノオの神でもできなかっただろう、と健治は湿布した右脚をさすりながら日記にしたためた。織田は湯をだいぶ飲んで失神したらしい。池内は言うまでもなく、念のためということもあり救急車で運ばれていった。池内の了解もあり、この件は警察沙汰にはならなかったが、むろんアパート内ではひそやかに噂話として盛り上がったわけである。

1−3 (・・・つづく)

●資料1:周辺キャラ  7人が仮住まいするのは荻窪の凡美荘という古びたアパート。部屋数は1階、全12部屋。7人のほかには20代と30代のサラリーマン二人とOL一人、そして都合がいいのか悪いのか同じ学園の教師が一人住んでいた(あとでわかったことだが)。その教師の名は、白鳥るり子。自称「荻窪のお嬢様」である。OLは元サーファーで、今熱をあげているのは「お立ち台」ギャル。週末になると毎晩12時までビートの効いたサウンドがアパート名物となっている。少なくともサラリーマンたちは文句を言わず暮らしている。というのも、超ボディコンだかららしい。特に、33歳の男、名前は池内源多というが、千恵ちゃんにゾッコンなのだ。本田千恵、通り名はチーという。チーちゃんの会社と向かい合わせのビルが池内の勤め先とあって、昼間でも窓越しに彼女を捜すという追っかけ。気持ちはまだまだ20代なのだが、なんせ横広がりの突き出し腹。チーちゃんに体よくあしらわれている。23歳の織田寛治はハンサムで身長もあるが、笑うと欽ちゃんより垂れ目で口元がこの世にはないほどイヤラシくなってしまうのが、チーちゃんの理性を喚起させてしまうらしい。



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